植物に詳しくないので何の木か分からないのだが、家の裏にずっとあった木が先日伐採された。
実は家の裏は昔小学校だった。
市内では比較的後に出来た小学校だったが、それでも出来たのが40年以上前なので、その時に植えられたものだとしても結構古い木だ。
小学校がなくなった後も、市の施設として使われていて、今でも年配の方々のゲートボール場や子供達のサッカー⚽の練習場になっている。
子供達にとってその木が練習中に危ないとか、そんなことは一切ないし、ゲートボールを楽しむご老人には休憩時間に木陰を提供していた。
それなのに、何の邪魔にもなっていないのに、その木は伐採されてしまった。
子供の頃からずっとそばにあった木。
そんなに意識はしていなかったが、当たり前のようにあった木がいざなくなると、何かとても寂しくなる。
その木が色々な役目を果たしてくれていたことは、なくなってから分かった。
夏の日など、砂のグラウンドの照り返しは木のお陰で、こちらにまともに来なくて済んだ。
また、市の施設の利用者の姿がまともに見えないように、ブラインドの役割も果たしてくれていたのだ。
木がなくなった今、グラウンドの照り返しがきついし、遮るものが何もないので、人の姿も丸見えだ。
更に、グラウンドの隅にある用具の倉庫も以前は木の陰になっていたのだが、今は日の光を浴びて白い塗料が目にチカチカして鬱陶しい。
たった一本の木であっただが、とても大事な存在だったことが分かった。
どうして人間は、木々を大切にしないのだろうか。
以前NHKの番組(関西ローカル)で、長年中高生に取っているアンケートのことが紹介されていた。
それは環境問題についてのもので、現在アラフィフの俺が高校生くらいの頃から取り続けているそうだ。
それによると、今の若い人達は俺たちの若い頃よりも環境問題について深刻に考えていないそうなのだ。
「自分たちの周りの自然環境をきちんと守るべきだ」
と考えている人が昭和時代と比べて大幅に減っているそうで、統計を取っておられる方もショックを受けていた。
たしかに、昭和の頃は環境もヘッタクレもなく、経済は右肩上がりのイケイケドンの時代で、大量生産・大量消費、そして大量廃棄をしていた。
空はスモッグで霞んで、排気ガスも環境に配慮などされていなかったし、下水はどぶ川に垂れ流していた。
今は技術が向上して、工場や車から出る排気ガスも有害物質をできるだけ出さないように改良されたし、汚水もきちんと処理してから川に流すようになった。
再開発された地区の超高層ビルの周辺には木々が植えられて小ぎれいになった。
一見すると、自然環境に配慮しているようにみえるが、地球規模で考えればお飾り程度にすぎないだろう。
もちろん、ビルの周りに植樹して綺麗にすることを批判しているのではない。
ただ、子供の頃からああいった環境で育つと、あれが自然豊かな環境だと勘違いする恐れがあると思うのだ。
俺の子供の頃のように、都会イコール車の騒音・排気ガス、無機質なコンクリートジャングルというイメージを持っていると、環境問題についてより深刻に思うかもしれないのだが、小ぎれいな都会しか知らないと、危機感など持たなくなってしまうのだろう。
俺の家の裏の木は、伐採しなければならないほど古かったり、病気になっている様子でもなかった。
管理が面倒くさいとか、人間の都合で切られたのだろう。
自然への畏敬の念を忘れてしまえば、いつか必ず人間に返ってくる。
(下の写真は昨年アリオ八尾で購入したものです)